ローマ滞在の2日目、朝の柔らかな光に包まれた街を歩きながら、コロッセオへと向かいました。
初日はトレビの泉やラザニアで有名なレストランを巡り、ローマの息吹を肌で感じましたが、この日は古代ローマの象徴とも言えるコロッセオをじっくり堪能しました。
ホテルから街を抜け、地下鉄に乗り込むと、観光客たちのざわめきが高まっていきます。「Colosseo」という駅名がアナウンスされると、車内の人々が一斉に立ち上がり、ホームへと流れ出していきました。地上に出ると、目の前には巨大なコロッセオが堂々とそびえ立っていました。
歴史の鼓動を感じる巨構造物
コロッセオはその名の通り、古代ローマの偉大さを体現しています。この円形闘技場は、紀元1世紀に完成したもので、かつては剣闘士たちの戦いが繰り広げられ、観客たちの熱狂が渦巻く場所でした。約5万人を収容できたと言われるこの闘技場は、建築技術の驚異であり、古代の娯楽文化の中心地でもありました。
外観を眺めていると、長い歴史の中で積み重ねられた時間の痕跡が刻み込まれています。無数のアーチがリズムを刻むように並び、その中に広がる石の影が優雅さと重厚さを兼ね備えていました。
コロッセオ内部へ
いよいよ内部へと足を踏み入れます。厚い石壁に囲まれた通路を進むと、目の前には広大な闘技場跡が広がります。かつて猛獣が解き放たれ、剣闘士たちが命をかけて戦った場所。その光景を想像するだけで、心がざわつきました。
地下部分も見学することができました。暗く湿ったその空間は、当時の剣闘士や動物たちが待機していた場所。何世紀も前の物語がここから始まっていたのだと、深い感慨に浸りました。
コロッセオが完成したのは西暦80年頃のこと。当時のローマ帝国はその版図を地中海全域に広げ、絶頂期を迎えていました。初代皇帝アウグストゥスが築いた帝国の礎を受け継ぎ、ネルウァ=アントニヌス朝の時代には「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」が保たれ、巨大な公共事業が次々に実現されていきました。その象徴の一つが、コロッセオ、正式名称「フラウィウス円形闘技場」です。
建設を指揮したのは、フラウィウス朝の初代皇帝、ヴェスパシアヌスとその息子ティトゥスでした。ヴェスパシアヌスがこの巨大建築を着工した背景には、政治的な思惑がありました。彼の前任者ネロ帝が没した後、ローマ市民の間には大きな不満と混乱が残されており、ヴェスパシアヌスは市民の信頼を取り戻すために、公共施設を整備し、庶民が無料で娯楽を楽しめる空間を提供しようと考えたのです。
また、資金調達にも一工夫がありました。当時、ローマ軍はユダヤ戦争に勝利し、エルサレム神殿から得た莫大な戦利品や奴隷を活用しました。この勝利の象徴として建てられたコロッセオは、ローマ帝国の富と力を内外に誇示する目的も果たしていました。
完成したコロッセオは高さ約50メートル、観客席の収容人数はおよそ5万人。ローマ市民にとってはまさに夢のようなエンターテインメントの舞台でした。剣闘士が命を懸けて戦う場として知られる一方で、猛獣狩りや公開処刑、さらには人工的に水を満たして模擬海戦が行われることもありました。その豪華なショーは「パンとサーカス(Panem et Circenses)」として庶民の娯楽を超えた政治的意味合いを持ち、ローマ市民を統治する手段でもあったのです。
しかし、時代の流れとともにコロッセオも次第にその役割を失います。剣闘士の戦いが禁止されると、闘技場としての用途はなくなり、中世には廃墟と化していきました。その後、地震や略奪で一部が崩壊し、建材として利用されることもありましたが、18世紀以降、カトリック教会がこの地を「聖地」として保護したことで、現在の姿が保たれています。長い年月を経てなお、コロッセオは古代ローマの栄光を静かに語り続ける存在として君臨していました。
この記事を書いた人
- 1985.11.09 滋賀⇄東京⇄滋賀
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